北海学園大学
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大学からのお知らせ
学報
学報57号(平成16年7月15日発行)
杜の都仙台で青空の下華やかなパレードで幕開け−対東北学院大学総合定期戦第50回記念大会盛大に開催
対東北学院大学総合定期戦第50回記念大会が6月12日から14日までの3日間、杜の都・仙台市で盛大に開催された。天候にも恵まれ、主管校である東北学院大学の周到な準備運営のなか、バレーボール、柔道、準硬式野球など公式戦15試合と、記念大会を機会に実現した羽球、ボクシング、サッカーなどのOB戦5試合が行われた。
初日、宮城県庁にほど近い桜台公園に集結した両校選手、役員は対面式のあと繁華街「一番丁通り」を風に揺れる校旗・体育会旗を先導に、彩りも鮮やかなコスチュームに身を包むブラスバンド、チアリーダー、選手団が同大土樋キャンパスに向け行進した。
午後4時から土樋キャンパスのラーハウザー記念礼拝堂で厳粛な雰囲気のなか、開会式が行われた。両大学長、学生部長や体育会長の挨拶に続き、両大応援団々長が力一杯エールを交歓した。
引き続き午後6時から仙台国際ホテルにおいて両大学関係者、本大会創設関係者OBおよび教職員、歴代体育会代表、各クラブ代表、クラブ指導者など総勢500人余が出席して「記念祝賀会」が行われた。旧知を確かめ、往時を懐かしみ、いつまでも終わることのない語らいがホールに響きわたっていた。
最終日の14日は梅雨どきの東北には珍しい晴天のもと、応援団、吹奏楽団、チアガール、星宮望東北学院大学学長、熊本信夫本学学長、両大教職員、その他大勢の学生の大声援を受けて硬式野球とサッカーが行われた。
午後3時、全競技が終了し、泉キャンパス礼拝堂で閉会式が行われ、星宮学長から総合優勝の東北学院大学に万雷の拍手のなか優勝杯が渡された。両大学長、体育会長、学生部長から半世紀に及ぶ交友の歴史に接したことへの感謝と、双方の学生、関係教職員に労いと謝辞が送られた。(関連記事2面)
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対東北学院大学総合定期戦 熱き戦い50年の軌跡 -1955〜2004-
戦後復興の槌音も高らかな昭和29年、「東京以北の二大都市、仙台と札幌に所在する私大間でスポーツを通じて交流を…」と熱く語る三森教授と星宮教授。創設以来いくつかの障害と多くの課題を乗りこえ、毎年、札幌と仙台とで会場を交互に移し継続開催してきた定期戦50年の歴史に道筋を開いた瞬間である。
翌30年6月、本学と東北学院大学との総合定期戦の記念すべき第1回大会は、海を隔て遠く仙台から150名余りの選手団を札幌に迎え、札幌中島スポーツセンター、同野球場(中島公園内)を主会場として開催した。
駅頭での対面式の後、校旗・体育会旗を先頭に、ブラスバンドの音曲に合わせて会場へと向かう両大学選手団の市中パレード。時移り行進コースやユニホームなどに大きな変化を見たものの、行き交う市民が足を留め、優しく視線を注ぐ風景は今でも変わらない恒例の行事となっている。
徐々に運動・体育施設が整備され、近代スポーツの名に相応しい競技環境に恵まれ、正々堂々とプレーに専心する選手。勝って喜び、敗れて次戦の糧にと、全身で青春を受け止め実感する若者たちの姿には、見るものに勇気を与える。
両大の定期戦にかける情熱は、褪せることなく後輩諸賢によって見事なまでに継承され、輝き続けている。そして時々の大会を運営するものとして、選手として、応援するものとして、また観戦者として、参加した学生・教職員に感動と懐旧美談を今に語る。
その数、万を超えることを三森、星宮両教授は予想されていただろうか。
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『ろう管レコ−ドに吹き込んだ人々』(2)「幻の録音−ヨハネス・ブラームス」 非常勤講師朝倉利光
1983年7月4日、ピウスツキの録音ろう管が里帰りした。ポーランドからはるばる北大応用電気研究所に運ばれてきたろう管に、多くの関係者は感慨ひとしおであった。ピウスツキろう管というのは、ポーランドの人類学者ブロニスワフ・ピウスツキ(1866│1918年)がロシア皇帝暗殺未遂事件に連座して樺太(サハリン)へ流されていた約100年前行った原住民の研究の一部に当たり、樺太アイヌ語の民話や民俗音楽などを73本のろう管に録音したものである。現在はほとんど死語化している樺太アイヌ語の最古の音声資料として、学問的に大変に貴重なものである。
このろう管について最初に伝い聞いたのは、アイヌ研究の草分け、金田一京助博士であった。1907年、まだ学生であった金田一博士がアイヌ語調査のため初めて樺太を訪れた時のことである。彼は、現地の人から蓄音機を携えてハウキ(ユーカラのこと)を吹込んでいた露人のことを聞いた。この話の伝聞から、ピウスツキのろう管のことは知られてはいた。しかし、はたして今なお残っているものか、残っていたとしてもどこに在るのか、その所在は謎に含まれていた。
それが1977年、偶然に明るみに出た。当時、日本留学を終えて帰国を間近に控えたポーランドのA・F・マイエヴィッチ博士が、北大北方文化研究施設発行の”北方文化研究“第11号に「ピウスツキの未刊アイヌ研究資料について」と題する論文を寄稿したことによる。そこにはろう管73本がアダム・ミツキエヴィッチ大学(通称ポズナニ大学)に保管されていること、録音内容や保存状態が悪いことなどが具体的に述べられていたのである。この論文に北方文化研究施設の黒田信一郎助教授(1992年死去)と井上紘一助手(現在、北大名誉教授)が心動かされ、何とかして日本で再生・解読できないだろうか、という思いに駆り立てられた。
しかし、録音内容の解読の前に、ろう管は約1世紀前の製品であり、かつ保存状態が悪かったため相当に劣化が進んでおり、音声再生に高度の技術的研究が求められることがわかった。このため、1981年6月某日、黒田、井上両氏は北大応電研の私のところに来て、ろう管からの音声再生について強い協力と援助を熱心に訴えた。アイヌ語と縁遠い私は、この要請にいささか戸惑いながらも、話を聞いているうちに興奮を覚え、何か協力できないかと思った。特に、光工学を研究していたこともあり、光を用いた非接触によるろう管からの音声再生の可能性や、電子工学的技術が役立つかも知れない。これらを考慮して、私はできる限りの協力を約束した。さらに、同じ研究所で音響工学を研究していた伊福部達教授(現在、東京大学教授)が全面的な協力を約束してくれた。そして、応電研でのろう管からの工学的音声再生の研究体制は整った。
しかし、その当時のポーランドが置かれた種々の国際的事情から、ろう管の日本への輸送に杞憂されることが多かった。それにもかかわらず、2年半余の黒田、井上両氏の情熱的努力と多くの人々の善意と協力に支えられ、音声再生ができそうな65本のろう管の里帰りが実現した。一方、ピウスツキ録音ろう管は言語学、民俗音楽、文化人類学において極めて貴重な資料であることから、大阪にある国立民族博物館を中心に国際研究組織「ピウスツキ北方資料研究会」が発足した。
このようにして、ろう管からの工学的音声再生の研究が始まり、いろいろな方法に基づく再生装置の試作と実験が行われ、特にレーザーを用いた非接触型の再生装置が開発された。これらを使って、65本のろう管からの音声再生に成功した。写真1は、よく保存されてきたと思われるピウスツキろう管の中の3本で、それぞれ左側がケース、右側がろう管である。これらから、ろう管の表面が非常に劣化している様子が伺える。写真2は、左側が複数個に破損したものであり、右側はそれらを修復したものである。このような修復したろう管からの音声再生には、針を使用した接触方式は適用できず、レーザー利用の非接触方式で行われた。音声再生と合わせて、内容の解析が言語学と民俗音楽の立場から行われた。一方、この機会を契機にピウスツキの生涯・業績とその周辺の発掘も文化人類学的立場から精力的に行われた。
ピウスツキろう管の里帰りは、工学、言語学、民俗音楽、文化人類学など多方面にわたる学際的協力による研究を呼び起こし、樺太アイヌ語を中心に数多くの成果をもたらした。1986年2月25日に、再生の役割を終えた録音ろう管は、北大応電研を離れポーランドに返還された。ピウスツキ録音ろう管は、1世紀以上前の北海道原住民であった少数民族樺太アイヌの実態を、肉声と一緒によみがえらせてくれた。まさに、人類の財産である音声による精神文化をよみがえらせたのである。
(情報理論・光エレクトロニクス)
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『バンクーバー在外研修顛末記 人文学部教授 上野 誠治
昨年4月から約1年間、カナダの西海岸にあるバンクーバーで在外研修をする機会を得た。当初は、重症急性呼吸器症候群(SARS、新型肺炎)やイラク戦争で世間が騒がしく、何かと不安な面もあったが、それもやがて沈静化していった。バンクーバーはアジアからの玄関口になっていることもあって、アジア系移民が多く住んでいる。特に、香港が中国に返還された1997年前後を境に香港からの移民が急増したようである。前回、1992年にバンクーバーを訪れた際にも、アジア系移民の多さに驚いたが、今回はそれ以上であった。どこに行ってもアジア系移民の姿があり、時として白人よりもアジア人が多くいる状況に遭遇することもまれではなく、一時「ホンクーバーHongcouver」と揶揄されたことがあったということにも合点がいった。また、現在は、香港からの移民は減少しているようだが、それに代わって台湾と中国大陸からの移民が急増しているようである。その影響もあってか、1月下旬のChinese New Year(旧正月)の頃には、スーパーマーケットは大売り出しをやり、小学校の授業でも教材になっていた。
今回の研修先は、バンクーバー郊外に広大なキャンパスを構えるブリティッシュ・コロンビア大学(通称UBC)の言語学科であった。創立年は1915年で、キャンパスというより、それだけで一つの「街」を形成しているような印象を与える。研修する際の受け入れ教授は、先住民の諸言語に関する音韻論と形態論を専門とするパトリシア・ショー教授であった。ちなみに、カナダでは、先住民の呼称として、侮辱的な表現とされるIndianが使われないのはもちろん、Native Amricanという言い方も一般的ではなく、その代わりに1980年代初頭からFirst Nationsが盛んに使われていて、書店などに行くとFirst Nationsと書かれた本をよく見かける。
大学では、学科長の特別の計らいで、大学院生との相部屋ではあったが、共同の研究室を利用することができた。この研究室は、有線・無線のいずれでもインターネットと接続可能で重宝した。この研究室は、大学院生であれば、部屋の鍵を申請すれば誰でも利用できるのだが、常時利用しているのは、博士課程で学ぶナイジェリア出身のOladiipo Ajiboye君とSolveiga Armoskaiteさんの二人だった。
滞在中、UBCで「代名詞の形式と機能に関するワークショップ」が、9月の3日間で開催され、それに参加することができた。比較的小規模な研究会だったが、世界的に著名な研究者が海外から集い、「代名詞」をテーマとしたたくさんの研究発表が行われていた。ワークショップという性格からかもしれないが、フロアーから活発な意見が続出し、意見が対立するときは、時には口論をしているかのような勢いで議論をしているのを見て、日本におけるこの種の研究会との違いを実感した。
今回の在外研修には家族も帯同したが、良い機会なので長女と長男は地元の小学校に通わせた。カナダの学校教育制度が日本と最も違う点は、教育制度が全国一律ではなく、州もしくは準州が決めていることである。学年制も州によって異なるが、バンクーバーのあるブリティッシュ・コロンビア州の場合は7│5制である。小学校1年生に当たるGrade1は6歳児であるが、5歳児を対象にした準備教育(幼稚園 Kindergarten)も設けられている。ただし義務教育ではない。この「幼稚園」は日本の場合とは異なり、同じ小学校の校舎の中にGrade1より1級下の位置づけで併設されていて、学校行事もほとんどすべて小学校と共通になっている。
出発直前になって、確保していたバンクーバーでの住居が5月からしか入居できないことになったが、幸い、知人でサイモン・フレーザー大学教授のジョン・チャント夫妻がその間の約1カ月間、家族5人揃ってホームステイさせてくれることになった。夫妻にはその後もいろいろと家族ぐるみでお世話になった。
6月末に、当時2歳半になる次男の様子が急変し、小児専門救急病院に連れて行ったところ、そのまま感染症で4日間入院することとなる。様子の変化も急だったが、幸い回復も驚くほど早かった。もっとも、日本の病院であればもう少し長い入院になっていたかもしれない。不慣れな土地での次男の入院であったため、家族全員が疲労困憊したが、現地の病院内の様子を垣間見る絶好の機会となった。また、次男の様子が急変する前に、ファミリー・ドクターの診察を受けていたのだが、その時点ではそれほど重篤な病気であるとは診断されず、その直後に救急病院に行かざるを得なかったことを思うと、このファミリー・ドクターの制度にどれ程のメリットがあるのか、やや疑問に感じずにはいられなかった。また、通常体調に異常を感じた場合、電話予約などをしてからこのファミリー・ドクターのところへ行くことになるが、近年、予約なしで診察を受けられるウォークイン診療所も増加しているようで、実際市内のところどころで見かけた。
10月31日は、ハロウィーンの日で、子供たちは仮装して登校する。学校では、体育館に子供たちが集合して、仮装を披露し合っていた。副校長、先生、用務員も思い思いの仮装をしており、学校全体でハロウィーンを楽しんでいるようだった。また、午後からもハロウィーン・パーティーがあり、今日は、ほとんど「勉強」はなかったようだ。その夜、子供たちを連れて近所の家々を訪ね"Trick or Treat"(お菓子をくれないといたずらするよ)を実践する。子供たちが"Trick or Treat"と玄関先で叫ぶと、そこの家の住人がお菓子をふるまってくれる、という趣向の習慣である。北海道の七夕で見られる「ローソク出せ、出さないとカッチャク(「ひっかく」の意)ぞ」などと子供たちが歌いながら近所の家々を回り、ローソクやお菓子をもらう習慣と同じである。見知らぬ土地で、知らない家を訪ねることに最初ちゅうちょしたが、子供たちもひとたび要領がわかると、大張り切りで家々を訪ね、持参した紙袋いっぱいのお菓子をもらって大喜びだった。
年末から新年にかけて、雪が降る。新年になり授業が再開した直後にも雪が降り、小学校はもちろん、驚いたことに大学までが休校となった。札幌の感覚では、それほどの量の雪ではないのだが、非降雪地帯にあるバンクーバーではあの程度の雪でも生活に支障が出るようであった。年が明けると、帰国のことが気になりだしたが、特に3月に入ると、帰国の準備に追われた。ほぼ荷造りを終えた後、自宅の前庭で引っ越しセールを行い不要なものは格安で処分した。
そんなこんなで感傷に浸る間もなく慌ただしく帰国したが、帰国早々4月からは教務委員に再登板し、朝から晩までガイダンス業務に従事するうちに、幸か不幸か、あっという間に現実に引き戻されてしまった。職場復帰へのリハビリなど、まったく必要なかった。そして、悲しいかな、仕事の合間にふと、この1年間カナダで暮らしたことが、まるで遠い昔の出来事になってしまったように感じることさえあった。文字通り、夢のような1年間であった。
(英語文法論・英語史概説)
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ベルリン素描 工学部教授 佐藤 邦宏
日本人、特に、札幌の住人がドイツと聞いて思い浮かべるものは多分、ミュンヘン(Mnchen)に代表される南ドイツのものであろう。ベルリン(Berlin)は、元々は辺境の地であったプロイセン(Preuen)の中心部に位置するが、プロイセン隆盛と共にドイツの中心として発展を続けてきた。ドイツ帝国(Deutsches Reich)が、統一国家として1871年6月に打ち立てられ、プロイセン王のヴィルヘルム1世(Wilhelm I)がドイツ帝国の初代皇帝となり、また、オットー・フォン・ビスマルク(Otto von Bismark)が宰相に就任したときに、ベルリンはドイツ全土の首都となり、その栄光の頂点に達したのである。中世にはドイツの辺境であったことを物語るように、ヨーロッパの地図を見てベルリンを探すと、東西ドイツ統一後のドイツ連邦共和国(BRD:Bundesrepublik Deutschland)の中で本当に東に位置し、ポーランド国境に近いことに気付く。かつての辺境が今日ではドイツの中心であること考えると、何か不思議な気もする。
栄光と分断、そして再統一と、ベルリンは時代に翻弄されたドイツの象徴ともいえる都市である。ドイツの首都、あるいは、地理的にヨーロッパの中心に位置する都市として、未だに時代に翻弄され続けている。私はそんなベルリンが好きだ。
それでは、まず、ベルリンに行ってみましょう。
日本から空路ベルリンに入る場合、残念ながら直通便がないので、ヨーロッパのどこかの空港を経由しなければならない。大方の西側諸都市からは、ベルリン-テーゲル-オットー・リリエンタール空港(Flughafen Berlin Tegel Otto Lilienthal)着となる。晴れていれば、ベルリンの街並みとテーゲル湖(Tegeler See)を眼下に見下ろしての着陸は、なかなかの眺めである。ベルリンの北西部に位置するこの空港は、ドイツが世界に先駆けて開発したロケットの実験場があった所であるが、第二次世界大戦後の1948年6月から1949年9月まで続いた旧ソ連・共産陣営による西ベルリン封鎖時に行われた大空輸作戦のために急遽建設されたものである。旧西ベルリンが共産圏の中に浮かぶ陸の孤島であったことが、改めて実感されると共に、始めに踏みしめたベルリンの玄関口が、栄光と分断の歴史が刻まれた所であることに思いを馳せると、何か感慨深いものがある。
それではベルリン市街に入りましょう。

X9のバスに乗って動物園駅まで15分ほどですが、空港から市街に出るにはこれが一番便利でしょう。動物園(Zoologischer Garten)駅は、旧西ベルリンの中心部に位置し、比較的小さなものであるにも関わらず、未だに、地下鉄(U Bahn:Untergrundbahn)、都市鉄道(S Bahn: Stadtbahn)、ドイツ連邦鉄道(DB: Deutsche Bahn)とバスの拠点駅である。私は毎日この駅を経由し、地域急行?(RE:Regional Expre)でポツダム大学(Universitt Potsdam)に通っていたが、ある時学生が言っていた事を思い出す。DBのホームが4つしかないため、列車の発着が多過ぎて、結局遅れてしまう。駅の拡張をすればいいのだが、歴史的な建造物であるため、それをしないのだと。ここにも、旧西ベルリン市民の想いが垣間見えるような気もする。ただ、ベルリン中央駅(Berlin Hauptbahnhof)とベルリン東駅(Berlin Ostbahnhof)の整備が進行しており、徐々にその機能を移転しつつある。ベルリンの市内交通網は非常に整備されており、公共交通機関としては、地下鉄・バス・路面電車(Tram)を統括するベー・ファオ・ゲー(BVG:Berliner Verkehrs Gesellschaft)と都市鉄道を統括するバーン・アーゲー(Bahn AG : Bahn Aktiengesellschaft)があるが、切符は共通で2時間乗り放題である。ベルリンの公共交通機関を利用する際には、改札というものが無い。その代わりに、乗る前にホームなどにある打刻機で時間を記録しなければいけない。頻繁に専任の係員が車内を回り、切符の提示を求められる。打刻していなければ切符を持っていたとしても無効で、その際には50ユーロ払わなければならない。ベルリンを訪れた際には、皆様もお気を付けください。私はかなりの頻度でそのような人を見たが、ベルリンの経済状況を象徴しているようにも思える。
少し寄り道して私の住んでいたアパートに行って見ましょう。
アパートはハンザ地区(Hansa Viertel)と呼ばれる所にあり、ツォー駅から、歩いても15分、ウーバーン(U Bahn)かエスバーン(S Bahn)で一駅と、市街の中心部で非常に交通の便がいいにも関わらず、居住環境の良いことに驚かされる。ベルリンは森と湖と川に包まれた緑豊かな都市なのである。私の借りていたアパートは、所謂、メゾネット(maisonnette)形式、つまり、2階構造になっており、ベランダに続く庭も付属していた。アパートの近くには、第二次世界大戦時に破壊されたためであろうか、超近代的な教会が2つあり、鐘の音を響かせていた。映画「ベルリンの詩」でも有名な勝利の塔・ズィーゲスゾイレ(Siegessule)もすぐ近くである。休日には公園の散策を楽しみ、日曜日には、ティーアガルテン駅の横、6月17日通り(Strae des 17. Juni)沿いに立つ、ベルリンで一番大きいと言われる蚤の市を見るのも一興である。ドイツの首都ベルリンの中心部でこの生活環境である。東京での生活を思い出すと、日本の住環境の貧しさに落胆せざるを得ない。ハンザ地区はベルリンの中心にあるティーアガルテン(Tiergarten)と呼ばれる広大な公園の北西部に位置し、非常に個性的な建物群がある。私の住んでいたアパートもその中の1つであるが、これらの建物は、冷戦時の東西緊張のさなか、1953-57年に建てられたもので”明日の都市における暮らし“”あらゆる形態の多様性における自由世界の設計“をモットーとした近代的な都市計画によるものである。ある学生が、ハンザ地区はスターリン(Stalin)に対抗するためのものだった、と言っていたのを思い出す。おそらく、西側社会の自由と繁栄を誇示する目的も、多分にあったのであろう。ベルリンには、過去の分断の時代を象徴するものが、いたる所に残っている。
ベルリン観光の出発点は、やはり、先ほどもお話した、旧西ベルリンの中心である、通称、ツォー周辺からでしょう。ここは、ティーアガルテンの南西部に位置し、その名の通り、動物園と水族館がある。この動物園はドイツにおける最も古い動物園の1つであり、その歴史は1844年にまで遡る。正門はツォー駅から10分ほど東に行った所にあるが、象をあしらった中国風のもので趣がある。ツォー駅から南東の方向を見ると、ヴィルヘルム皇帝記念教会(Kaiser Wilhelm Gedchtnis Kirche)の尖塔とその上にベンツ・マークがあるオイロパ・センター(Europa Centre)のビルが目に入るが、歩いて5分ほどである。この教会は、初代ドイツ皇帝の栄光を記念して1891-95に建てられたものであるが、1943年の空襲によって破壊された。戦後、ベルリン市民の願いにより、戦争の悲惨さを留めるために、破壊された教会の建物をそのまま残し、その両側に青い色ガラスを基調とした近代的な教会が1956年に建設されたのである。オイロパ・センターは、レストラン、スーパーマーケットを含むショッピング・モールとなっており、中央吹き抜け部分にある時計も奇抜なものである。東側のブダペスター・シュトゥラッセ(Budapester Strae)に面した所には、インフォメーション・センタもあるので、ベルリン観光を始める前に、まず、ここに行かれることをお勧めします。記念教会との間が広場のようになっており、季節に応じて週末には催し物が開催されることもあり、それなりに面白いものである。ビール(Bier)を片手に焼きソーセージ(Bratwurst)を頬張るのもいいでしょう。この近辺は、旧西ベルリンの繁華街でもあり、特に、通称クーダム(Kurfrstendamm:選帝侯大通り?)と呼ばれる高級店が軒を連ねる通りにも面している。ここから、 タウエントツィーン・シュトゥラッセ(Tauentzien Strae)に沿って、いろいろなお店を眺めながら南東に向かうと、ヴィッテンベルク・プラッツ(Wittenberg Platz)に出る。ここには、1907年創業のカー・デー・ヴェー(KaDeWe: Kaufhaus des Westens)という老舗百貨店があり、その最上階にあるカフェテリア(cafeteria)は、なかなかなものである。ドイツパン、肉製品、チーズなどの豊富さには驚かされる。生の魚も豊富であるが、鮮度に関しては日本人の厳しい目にかなうかどうかは疑問である。老舗ということもあり、高級品が多い。信じられないようなお金持ちが買い物をしている一方で、デパートの外には多くの貧乏人がいるのだと言っていた旧東ドイツ出身の学生の顔が目に浮かぶ。

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ベルリンは大都市である。分断と再統一後の歩みを続けるドイツの最前線でもある。その一端をご紹介するに止まりましたが、最後に、ベルリンの壁が築かれた2年後、1963年6月25日、故ジョン・F・ケネディー(John F. Kennedy)が米国大統領としてベルリンを親善訪問した際の有名な演説の一部を引用して締め括りたいと思います。皆様、何をお感じになるでしょうか?
All free men, wherever they may live, are citizens of Berlin, and, therefore, as a free man, I take pride in the words "Ich bin ein Berliner".
(電子デバイス・電気磁気学)
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機関長インタビュー「学生時代も就職後も経験の蓄積を大切に」 就職部長 石井 耕
不況という長いトンネルを抜け、日本経済にも回復の兆しが見えているようだ。大学への求人も大企業対象の調査によると今年は増加傾向にあるという。その一方で、就職に対する意欲の低下やフリーターの増加が社会問題となっている。大学は学生をどのように教育・指導し社会に送り出しているのか。今年度より就職部長に就任した石井教授にお話を伺った。

-大学における就職部の役割を先生はどのようにお考えですか?
石井教授 まず大きな役割として、1人でも多くの学生を就職させることです。しかし、毎年2000人近くが卒業し、それぞれのやりたいこと、いろいろな希望があるため一つの枠にはめることはできませから、学生のニーズに合わせて対応することが大切だと思っています。

-北海学園大学は公務員志望の学生が多いですね。
石井教授 公務員志望の学生が増え、合格が難しくなっていますが、本学の公務員試験合格者数は減少することなく、昨年度の国家公務員U種合格者数の私大ランキングでも全国で13位でした。本学の場合、地元志向、安定志向の学生が多く、入学時から公務員を目指している学生が多いようです。

-就職部では具体的にどのようなことを行っていますか。
石井教授 基本的には3年からガイダンスを開始し、個人面接や就職指導講座、業界研究会などを実施しています。公務員試験対策講座については2年から、資格取得のための各種就職支援講座については今年度から、全学年を対象に開講しています。また、2・3年を対象にインターンシップにも取り組んでいて、学部によっては参加すると単位が取得できるところもあり、年々希望者は増えています。

-学生の就職に対する意識について先生はどう感じていますか?
石井教授 私は2年のゼミを担当していますが、彼らはいろいろな方向性を持っているなと感じています。しかし、それをどのように実現させるか、その方法がわからない学生が多いようです。そんな彼らを一方的にこうと決めつけて指導するのではなく、いろいろ悩んで自分で考えて自分で決めるというプロセスと決断を重視したいと思います。

-せっかく就職してもすぐに退職したり、あるいはフリーターになる人が増えていて、社会的にも大きな問題になっていますが。
石井教授 たとえ辞めるのでも、仕事を見つけてから辞めたり、他にやりたいことがあるといった明確な理由があればまだいいのです。しかし、親を頼って安易にフリーターになると、その期間の経験の蓄積ができず、次の就職を探そうとしても評価されません。働くということは大変なことですが、長くその仕事を続けていれば仕事は必ずできるようになります。企業でいろいろな仕事の経験を蓄積しておくことが重要だと思います。そうすれば、次の仕事は必ず見つかる。そこまで頑張ることが必要なのではないでしょうか。

-先生は教員になる前は企業に勤めていたそうですね。
石井教授 シンクタンクに17年いまして、そのうち3年ほど採用担当も経験しました。採用にあたって一番重視するところは、適性です。具体的には、面接での答え方を見ます。自分で考えて自分の言葉で論理的に話しているかというところです。経験談を引き出すような質問をあらゆる角度からしていきます。ですから、学生時代に何を経験したのかが非常に重要なのです。それは友人関係でも、ゼミでも、部活でも、何でもいい。それが就職活動には役立つのです。

-就職部長として伝えたいことは?
石井教授 先日、経営学部の父母懇談会がありまして就職部長として話したことは、それぞれのやり方があるので、学生たちにあまりプレッシャーをかけないでほしいということ、名前の知らない会社でも「そんなところ大丈夫なの」と言わないでほしいということ、また、道内は不況が続いていますから道外にも積極的に送り出してほしいということです。学生に対しては、就職部は積極的にサポートしますから、何しろ動いてもらいたいということです。いろいろな経験を積み、よく考えて自分の進む道を決めてほしいと思います。
(企業行動論)

[略歴]
1951年東京都生まれ。北海道大学経済学部卒業。博士(経営学)。三菱総合研究所、北海道教育大学函館校、セント・メリーズ大学(カナダ)を経て98年より本学へ。著書に『現代日本企業の経営者』、『企業行動論』など。

石井先生のおすすめの一冊
『能力構築競争-日本の自動車産業はなぜ強いのか』藤本隆宏著(中公新書)
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